感じたまま
2015-10-03T21:03:39+09:00
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日常のこと
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稲毛三郎重成の足跡を辿る 畠山重忠公ゆかりの地を行く 3/3
http://a7617.exblog.jp/21747197/
2015-04-29T08:54:00+09:00
2015-10-03T21:03:39+09:00
2015-04-29T08:54:19+09:00
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明後日5月1日(金曜日)以降はライブドアブログに移行します
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これからもよろしくお願いいたします。
「川崎市民アカデミー」
講座川崎学まち歩きWS
畠山重忠公ゆかりの地を行く 三回シリーズの 三回目です。
地図の時計回りに歩きました。
白根不動尊。
不動尊は、神社なのか仏閣なのか悩むところですが、
案内板を読むと、元お寺が神社として残っていると
かいてありましたので、神社にしましょう。
明治の神仏分離で神社にしたのでしょうね。
源氏に関わり合いのある神社です。
それとここの旧お寺を造ったのは鎌倉権五郎景政というのもすごいです。
平安時代の有名人の組み合わせで不動尊を祀ったと言います。
逆に逆に歩いてきたので写真の順序が逆になりました。
この奥に上の写真の本尊が有ります。
ややこしくてすいません。
散策の途中で見た藤の花。
下白根に在る帷子川の分水路。
前方左に水門が見えます、ゲート部分が青色になっています。
此の水門はこの川が大水で危険になった時に此の水門から
トンネルを通じて横浜港に放流する水路です。
詳しくはこちらをどうぞ。
帷子川親水緑道。
帷子川沿岸は急速な宅地開発と蛇行の激しい川筋で洪水被害が多かったそのため、
流れを直線に改修、後旧河川を利用して緑道を作りました。
おおざっぱな印象では、下が改修後の直線部分、上が改修前の流れを親水公園に
下イメージ図。
親水公園の散策路を歩きました。
とてもいいところです、ハナミズキ、赤白が綺麗でした。
この橋は渡れませんでした。
ヤブデマリだと思いますが、間違っていたらお許しを。
こんな道を歩きました。
今回の散策の解散場所。
白根橋付近。
此処から相鉄線鶴ヶ峰はすぐそばです。
此れで、鎌倉初期稲毛領主稲毛三郎重成の足跡を辿る。
小山田氏一族の興亡歴史を辿る。
畠山重忠 終焉の地めぐりを終わります。
案内をしていただいたまちだウオークガイドの会 近藤安雄さんをはじめ
同行し、いろいろと教えてくださいました、皆様有り難うございました。
なお、
余談ですが畠山一族に連なる小山田氏の一族はその後
様々な歴史の場面で出てきます。
例えば
新田義貞の鎌倉攻め・・・・・
湊川の戦い楠正成と一緒に討死・・・・
甲斐、武田家滅亡時に・・・
秀忠の隠し子預かり養育 「名宰相 保科正之」・・・
歴史と言うものは在る場面、時代だけで切り取って考えないで、
連綿と続いているのだということです。
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稲毛三郎重成の足跡を辿る 畠山重忠公ゆかりの地を行く 2/3
http://a7617.exblog.jp/21744560/
2015-04-28T07:43:00+09:00
2015-04-28T08:04:13+09:00
2015-04-28T07:43:21+09:00
a7617
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講座川崎学まち歩きWS
畠山重忠公ゆかりの地を行く 三回シリーズの 二回目です。
此の地図の時計回りに歩きました。
薬王寺の六つ塚見学して「駕籠塚」に行きます。
畠山重忠の内室(妻)「菊の前」は、合戦の連絡を受け、急ぎ駆けつけました。
しかし、この地で重忠戦死を聞いて悲しみ、自害しました。
その場所に駕籠ごと埋葬されたといわれています。
以前は、浄水場の中に周りを囲まれた大きな塚があったそうです。
昭和30年に場外に移され、その後、昭和49年に現在の姿に整備されました。
駕籠塚を見て、横浜市鶴ヶ峰浄水所の脇を通ります。
この道のように見えるのは水路の(上水道道)です。
1200mmの水道管が此の下に通っています。
水路は上のリンクで確かめてください。
上の写真の上水道道を越えたあたりは展望は良く夕暮れ時の
丹沢の山並とみなと未来がとても綺麗に見えるといいます。
ランドマークタワーが見えました。
急な階段を下って白根地区に進みます。
此処には図書館や地区センターが有ります。
こんな茸を見ました。
図書館や地区センターから、白根神社に降りる螺旋道路。
白根不動、現在は白根神社となっておりますが、
地元では「白根のお不動さん」の愛称で親しまれています。
本尊は5年に1度開帳されます。
境内を流れる中堀川に大滝、谷間より流れ出る小滝の2滝があります。
小滝は行者の修業に使用されます。
大滝は、白糸の滝と呼ばれ、幅9m、落差5.5m、
横浜市内では唯一といわれた自然滝でしたが
侵蝕がひどく、昭和62年度より、修復工事が行われ新たな
白糸の滝の碑。
白糸の滝(大滝)
浸食がひどいので石積にしています、修復したのですね。
白糸の大滝の脇に万葉の碑が有ります。
武蔵国都筑郡の防人夫婦の歌が書かれています。
大意は
私の旅が胸を苦しくしたら、足柄山にひろがる雲を見ながら、しのんでくれ。
わが夫を筑紫へ旅立たせて、いとしいので帯は解かずに、あやしくもねることかなあ。
白根神社は急な階段が有り、崩れかかっていた登るのが
禁止されています。
その脇に「白根不動の竜神様」が有ります。
言い伝えによればむかしから龍は、このように清流を好み、
自分の好きなジュンサイをさがして、白根不動と峯の円海山を
行き来して、道行く人々を驚かせていたということである
不動明王と行者の滝。
中堀川の大滝が白糸の滝で、この小滝が昔、行者の修行に使われたことから、
行者の滝と云われています。
細い樋から落ちている、水を滝と言うのはやや無理があるかな。
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稲毛三郎重成の足跡を辿る 畠山重忠公ゆかりの地を行く 1/3
http://a7617.exblog.jp/21736925/
2015-04-25T08:16:00+09:00
2015-04-25T19:51:33+09:00
2015-04-25T08:16:21+09:00
a7617
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かわさき学 WS
表題の講座の三回目になります。
稲毛三郎重成の足跡を辿るは今回で終わりました
今回は相鉄線鶴ヶ峰周辺の史跡を訪ねます。
稲毛三郎重成の従兄弟の「畠山重忠ゆかりの地・白峰公園を付近を
散策いたしました。
写真は三回に別けて貼ります。
観光地図の一部をコピーしました。
下の鶴ヶ峰駅から時計回りに歩きました。
出発点の相鉄鶴ヶ峰駅北口。
繁華街を5分ほど歩くと「鎧の渡し緑道」に着きます。
以前は。帷子川はこの地を流れ川幅が広く、
武士がここを渡る時、鎧を頭にかざし川を越えたので
「鎧の渡し」と呼ばれていました。
近くに鎧橋として、橋名が残されている。
この写真の前方道路に鎧橋の地名が残っています。
緑道を少し行くと標識が立っていました。
川原には井戸があり切られた畠山重忠の首を洗ったという
「首洗い井戸」があり川原に直径1メートルほどの穴があり
水が涌いていたが、今は埋め立てられている。
首塚。
元久元年(1204年)重忠の息子の重保が北条時政の
後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅と酒席で争った。
この場は収まったが、牧の方はこれを恨みに思い、
時政に重忠を討つよう求めた。
翌・元久2年(1205年)時政は息子の義時・時房と諮り、『吾妻鏡』によると
二人は「忠実で正直な重忠が謀反を起こす訳がない」とこれに反対するが、
牧の方から問い詰められ、ついに同意したという。
元久2年(1205)鎌倉に異変ありという報で息子重保を
先に行かせたがだまし討ちに遭い、自らも菅谷(埼玉県)から
鎌倉に向かう途中、二俣川で北条氏数万と闘い、わずか134騎で
4時間に及ぶ激戦の末42歳で非業の最期を遂げた。
忠重公はこの付近で打ち取られ、遺体はこの場所に
葬られたという。
事件の背景には、武蔵武士団の首領である畠山氏と、
武蔵守である朝雅を後見する北条氏による
有力武蔵支配を巡る衝突があり、
また、時政の先妻の子・義時と、後妻の娘婿・朝雅の
北条家内の対立があったものと考えられる。
重忠公逆さ竹。
重忠公は戦死の直前に「我が心正しかればこの矢にて
枝葉を生じ繁茂せよ」と矢箆を地に突きさした。
やがてこの矢は自然に根付き、年々2本ずつ生えて
茂り続けて「さかさ矢竹」と呼ばれるようになったという。
今見えるこの竹は
別な場所にあったが、全部涸れてしまった。
平成17年にこの地に植えたそうです。
表示板の右側に見える竹がその「さかさ矢竹」です。
散策中に見た「夕化粧」の花。
帷子川に沿って歩きます。
帷子川本流の全域が神奈川県横浜市内を流れている。
もともとは蛇行の激しい暴れ川で水害の多い川であったが、
多くの地点で連綿と河川改良が進められた。
近年、川の直線化や護岸工事など大規模な改修が進められ、
西谷から横浜駅付近に流す地下分水路や、親水公園、川辺公園などが造られた。
帷子川に注いでいた中小河川の名残、水はありません。
矢畑・腰巻
北条方の放った矢が一面に突き刺さり、矢の畑のように
なったということから「矢畑」と呼ばれています。
また、このあたりで重忠公が取り囲まれたというので
腰巻と言うそうですが、矢が腰巻のように
ぐるりと取り巻いたという説もあるそうです。
さらに薬王寺の六つ塚に行きました。
薬王寺は1205年(元久2年)6月22日、何度も書いていますが
北条時政の謀略によって武蔵国二俣川で討死した畠山重忠の霊堂。
境内には重忠をはじめ、一族郎党134騎を葬ったと伝えられている
六つの塚がある、これを六つ塚と呼んでいます。
重忠公の物と思われる、塚。
以下は家来のもの思われる塚。
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『河原の者・非人・秀吉』服部 英雄 著
http://a7617.exblog.jp/21734403/
2015-04-24T07:22:00+09:00
2015-04-24T16:39:18+09:00
2015-04-24T07:22:04+09:00
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秀吉は多くの妻妾を持ちながら子宝には恵まれなかった。
50歳を超えて側室の茶々との間にだけ早世した鶴松、次いで秀頼を授かっている。
秀頼については早くも江戸時代に、実父は大阪の陣で淀君母子に殉じた大野長治だとする説が広まった。
作家の司馬遼太郎なども非実子説に言及しているが、これらは憶測や俗説の域を出ていない。
そこで服部教授は秀頼の誕生日である文禄二年(2593年)8月3日から逆算して受胎が想定される前年の天正二十年11月4日前後に秀吉と茶々が同衾した可能性を検討してみた。
秀吉は同年10月1日に朝鮮出兵の基地・名護屋(佐賀県唐津市)に向け大阪城をたち、翌年8月まで滞在した。
秀吉の子を宿したとすれば、茶々も同行していなければならない。
その根拠とされたのが名護屋に従軍した平塚滝俊の日記にある「茶々が同行しているらしい」という記述だ。
しかしほかの多くの資料を再検討した結果、茶々の名護屋での存在を示すものはない。
名護屋城には側室・京極瀧子が滞在したことがはっきりしており、服部教授は「平塚の日記は瀧子を茶々と誤認したもの」と結論つけた。
そのほかに様々なことから秀頼は秀吉の子でないと科学的に結論つけている。
ならば何故秀吉は茶々を許し秀頼を実施と認めたのか。
教授はそれを「茶々はかっての主君織田信長の姪。織田家の覇権を簒奪した秀吉にとって自らを正当化するためにも、茶々が子を産むことが望ましかった」
これまで学会は秀吉が秀頼を実子と認めている以上、血のつながりにあまりこだわってこなかった。
しかし服部教授は史実の解釈に重大な問題だと説いています。
秀頼の誕生が、秀吉の後継者だった関白秀次の、失脚、自刃につながったと言われる定説。
関ヶ原の合戦で秀吉子飼いの武将の多くが東軍(徳川方)についた理由についても「背景には秀頼出生の正統性対する疑問があった」という視点で再議論、検討されるべきだと主張しておられます。
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人生案内 受験勉強
http://a7617.exblog.jp/21729656/
2015-04-22T08:50:00+09:00
2015-04-22T09:05:31+09:00
2015-04-22T08:50:52+09:00
a7617
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受験勉強、なぜヤラナケレバいけないのでしょうか。
私の子供の時分い「学校の勉強など社会に出たらほとんど役に立たない」と言う
大人がいましたが、私はそんなことはないと今でも思って居ます。
以前、ソニーの盛田昭夫さんが学歴無用論を掲げましたがが、今では
この考え方、意見はどのように理解されているのでしょうね。
この回答者の鷲田清一(哲学者)さんと言う方は判りやすい解答ですね。
全文掲載します。
受験勉強の意味とは
高校1年の女子。志望校に落ち、なぜ受験勉強をしなくては
いけないのか疑問を持つようになりました。
努力は報われるという周囲の言葉を信じて、1年間勉強しました。
結果が出て思ったのは、なんか、ばかばかしいってことです。
中3になったとたん、親も先生も口出しを始め、勉強はするようになったけれど、
多分気持ちがついていかなかったのだと思います。
結果を出さなければ、勉強したうちに入らないと多くの人に言われましたが、
それは結果のために勉強しているってことなんでしょうか。
1回きりのペーパーテストで未来が変わるのはおかしい気がします。
受験勉強より、人と話し、芸術に触れ、旅でもしたほうが、
感情豊かで深みのある人間になれると思います。
政治家の悪いニュースをよく見ますが、たとえ東大を出ても
常識がなければ、人に尽くせる人間にはなれないと思います。
なんで受験勉強をしないといけないのですか。
(京都・J子)
◇
「しかたがないから」「しなければならないから」という以上の
理由をもっている受験生は少ないと思います。
ほとんどの人は「内なる」理由をもたずに、とにかく一つでもいい大学に
入ろうと受験勉強をしている。
大学に入ることが目的なのではなくて、何かまだ見えていない
目的を果たすためにも、まずはそのことにきっと有利に
はたらく大卒の資格を取っておかなければ、という理由です。
でもそういう人たちにも、いずれ、自分はいったい何がしたいのか、
すべきなのかという問いと向きあう日が訪れます。
その日があなたには人より先に来ましたね。
受験勉強は手段です。でも勉強はもっと大きなものです。
自分が歴史のどういう段階にいるのか、世界情勢、
社会情勢のどのような位置にいるのか、それを探り、
そして何をすべきか、何ができるかを知るために、
つまるところ自分がいま立っている場所を知るために、
先達の探究から学ぶというのが、勉強する理由だとわたしは思います。
いま、あなたはその問いに向き合っている。大事な時間です。
鷲田清一(哲学者)
写真の説明
本文とは関係ありません。
二人いる孫、下の孫は今年高校生になりました。
このご飯茶碗、左が私、右が孫のもの。
私は軽く一杯、孫は我が家に来ると「あ~腹減った」と言いながら
この茶碗に大盛り二杯食べます。
吃驚したり、うれしくなったりです。
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横浜公園のチュ-リップ
http://a7617.exblog.jp/21726896/
2015-04-21T07:49:00+09:00
2015-04-21T08:09:13+09:00
2015-04-21T07:49:33+09:00
a7617
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花の盛りは過ぎていましたが、それでも十分に楽しむことができました。
この写真は4月17日のものです。
夫々に名前が有りますがひとくくりにして「チューリップ」でいいでしょう。
これは赤レンガ倉庫脇。
此処から横浜公園。
これはチューリップではありません。
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稲毛領主 稲毛三郎重成の足跡を辿る (国分寺)
http://a7617.exblog.jp/21724425/
2015-04-20T10:32:00+09:00
2015-04-20T19:56:07+09:00
2015-04-20T10:32:30+09:00
a7617
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講座川崎学まち歩きWS
今回のまち歩きは、鎌倉時代の武将「畠山重忠」の関連場所と
国分寺付近を散策いたしました。
畠山 重忠(はたけやま しげただ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。
鎌倉幕府の有力御家人。
源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍。
知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。
館は、鎌倉筋替橋の東南。
存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」
と言われていた立派に人物であったという。
しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって
謀反の疑いをかけられて子とともに討たれ(畠山重忠の乱)、子孫は名字を変えた。
この様に、頼朝以来の功臣、有力武将は北条幕府による謀略によって次々と
滅ぼされていった。
と言う話を前提にして散策をいたしました。
また、「国分寺」 、 「東山道武蔵路」についても勉強いたします。
出発、集合場所は西国分寺駅
そこから歩いて10分ほどのところに在った、「姿見の池」
源平争乱の頃、遊女の夙妻太夫(あさづまたゆう)と坂東武者で名将といわれた
畠山重忠とが恋におちました。ところが太夫に横恋慕、する一人の男がいて、
その男は重忠が平家との西国の戦で討ち死にした嘘をつき、
あきらめさせようとしましたが、深く悲しんだ太夫は姿見の池に
身を投げてしまったと言い伝えられています。
そ言う伝説からこの付近を「恋ヶ窪」と言う地名になっています。
この池は後から作られたものです。
このように伝承に彩られた姿見の池は、昭和四十年代に埋め立てられましたが、
平成十年度、「そんな良い伝承があるのなら」と昔の池をイメージして整備しました。
もっと言えば別の場所に在ったそうです。
この表示を見るとこの池がここの無かったと想像する人はいませんね。
池に水を引き入れている恋ヶ窪用水。
草に埋もれて、流れが見えない。
「一葉(ヒトハ)の松」伝説。
姿見の池に身を投げた夙妻太夫(あさづまたゆう)を憐れんだ
土地の人が供養のために松を植えました。
なぜかその松の葉は、対に出ていないで一本しかなかったといいます。
またその松の葉はすべて西の方を向いていたという伝説があります。
その松のある「東方寺」
鎌倉時代に在ったものとしては小ぶりですね。
府中街道に在ったベニバナトキワマンサク。
此の辺りはこの木の並木道になっています。
市立歴史公園にある「史跡東山道武蔵路」
この通りは公道としても利用されています。
なぜこのような道が必要であったのでしょう。
説明版より。
東山道武蔵路は古代官道である東山道が上野国から武蔵国府に立ち寄り、
再び下野国に戻る支道で、当時駅路と呼ばれる道で、
現在一般に武蔵国を通る東山道の支道ということで「東山道武蔵路」と
呼ばれている道なのです。
以前は古代の道といえば自然発生的な道を多少発展させた程度の
道と考えられていましたが、近年の考古学の道路発掘の進展により、
側溝をともなった幅広の直線道路であることが判明してきています。
国分寺市の旧国鉄中央学園跡地内から340メートルにも及ぶ遺構が発掘され、
指定地区では総延長約490メートルにわたり道路遺構が確認されているということです。
国分寺市のこの道路遺跡は古代道路の研究に新たな道路変遷の遺構を検出しています。
中世の東海道。
私は東海道とは江戸から京都までだと思って居ました。
当時の東海道とは今の茨城県付近までを含んで居ました。
大きく、詳しく書かれた立派な説明版。
東山道武蔵路跡を見学、解説を聞いた後「都立武蔵国分寺公園」の中を通りました。
桜「ウコン」です。
八重の桜です、名前は判りません。
公園を抜けて「国分寺崖線」を見ます。
何度も来ている場所です、相変わらずきれいな水が湧いていました。
その湧水の脇に「真姿の池」が有ります。
848年、玉造小町という美しい女性が病気にかかり顔が腫れ醜くなってしまったが、
国分寺の薬師如来で願をかけると、この池で身を清めるようにとのお告げがあり、
その通りにするとたちまち病気が治り、もとの美しい顔に戻ったという。
さらにお鷹の道から国分寺に向かいます。
その名は国分寺周辺が江戸時代に尾張徳川家
の御鷹場となっていたことに由来します。
ちなみに
三鷹の名は、かつて徳川将軍家及び御三家が鷹狩を行なった
鷹場の村々が集まっていたことと、世田谷領・府中領・野方領に
またがっていたことに由来する(三領の鷹場)と言われている。
お鷹場になった村々の負担は大変なもので有ったらしい。
獲物がないと殿様や将軍が不機嫌になるので、鷹狩があると聞くと
村々の人はあらかじめ獲物を用意しておいたという。
「武蔵国分寺跡資料館」の敷地の中に在る七重の塔の模型。
現在の国分寺。
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、
武蔵国国分寺の後継寺院にあたる。
現在の楼門。
此の楼門は米津寺(東久留米市)の楼門を明治28年に移築したもの。
市の文化財に指定されている。
国分尼寺の跡地。
「尼寺」は東山道武蔵路の西側に建立されました。
現在は史跡の保存整備も終了しています。
平成19年「日本の歴史公園100選」に選定されました。
桜の時期は綺麗でしょうね。
宿坊跡。
武蔵国分尼寺を見学してから。
「伝鎌倉古道」を歩きました。
鎌倉時代に、幕府所在地である鎌倉と各地を結び、
周辺諸国の武士団や物資を運ぶ幹線道路 が整備されました。
現在の「鎌倉街道」の名は、近世になって使用されたものであり、
鎌倉当時は武蔵国内を通過する主要道路は上の道、中の道、下の道と
呼称されてい ました。鎌倉以前の幹線道路である東山道と
道筋の重なる「上の道」が、現在の鎌倉街道にあたります。
鎌倉から町田・府中を経て、国分寺市内の
武蔵国分尼寺跡西側-泉町交差点付近-小平を通り、
上野(群馬県)、信濃(長野県)方面に のびており、
市立歴史公園(武蔵国分尼寺跡)の北側に約120mの道が
「鎌倉上道」の名残と云われて保存されています。
この鎌倉街道の脇に何に使われていたのか判らない塚が有ります。
登ってみました 。
塚の上から国分寺方面が良く見えます。
本日の散策の解散地 国分寺駅。
今回の散策は稲毛三郎重成と同時代の畠山重忠について、
またお鷹の道の由来、武蔵国分寺、尼寺、について勉強いたしました。
印象が強かったのは様々な古道が有ったことや東海道、私の認識と
大きく違っていたのに驚きました。
武蔵野国が想像するより大きかったこと等々、新しい発見が有りました。
今回も同行して様々な事を解りやすく教えていただいた
皆様、ありがとうございました。
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好き嫌い
http://a7617.exblog.jp/21719260/
2015-04-18T08:57:00+09:00
2015-04-18T09:11:52+09:00
2015-04-18T08:57:58+09:00
a7617
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「喉が渇いたジュース勝ってきて」と人に云われた時、それが好きな人の言う事なら
「OK」と素直に返事が出来ますよね。
しかし苦手な人、嫌いな人なら「え?」となってしまいます。
そもそも好きか嫌いかとはなんなのでしょうか?
我々の良くないところは、何となく第一印象で「あ、この人とは合わない」と距離を作っている事です。
以前言ったかもしれないが人は経験から物事を判断します。
だから相手の事を良く知りもしないのに「あの人は嫌い」「この人は好き」と勝手に判断します。
自分と近い環境にいたり趣味や感覚が合う人は好きなひと。
自分と違う環境や趣味が合わなかったりすれば、嫌な人になる。
良く考えてみればわかるが、人間の世界は好きか嫌いかで分けられるほど単純なものでは在りません。
好きと言う気持ちはいいかもしれませんが嫌いと言う気持ちを持っているだけで随分と
損をしているかもしれない。
そこで仮に嫌いな人をどうしたらその人への嫌悪感を忘れられるでしょう。
いろいろ考えてみたがこれは難しいね。
やはりなるべく接していくと言う事も大事でしょう。
だって言うでしょう「馬には乗ってみよ、人には沿ってみよ」ってね。
要は接することで心のバリアを取り除いていきその人の事を理解していくことが必要ではないのかな。
此処で大事な事は「その人の事を理解していくと、より好意を持つようになる」と言う事です。
私の経験では、なぜか苦手な人が居たが、ある時重い病気になり入院手術をした。
嫌いな人だった人だったが、「ざまー見ろ」と言う感情はわかずに、この時なぜか「可哀そうに」と言う気持ちになってしまった。
お見舞いに行こうと決心し果物をもっていきました。
行ってみると、とても喜んでくれました。
病状と手術の話、入院中のおかしい様々な話をしてくれました・・・・
その方が退院してからは私に対する態度ががらりと変わり「Y君・Y君」と様々な場面で
助けていただきました。
大袈裟な云い方をすれば私の人生が豊かになったのです。
写真説明
川崎出身の歌手「坂本 九」さんの顕彰碑ができました。
JR川崎駅前広場、鶴見側のタクシー乗り場の左側です。
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泉の森・ふれあいの森 2/2
http://a7617.exblog.jp/21716514/
2015-04-17T07:47:00+09:00
2015-04-17T08:49:20+09:00
2015-04-17T07:47:20+09:00
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無残にも虫に食われた木の葉。
サンゴジュハムシと言うらしい。
5~6月に出現し、茎の中に卵を約10個産み、その表面を糞で塗布します。
卵で越冬し、初春から幼虫は新芽を食べて成長し、
羽化後は成虫も同じく葉を食害して穴だらけにします。
幼虫は葉脈を残して食べるため、この様に透明な網目状の食痕を残します。
タチツボシミレ。
日本のスミレ属は種類が多く、さまざまなものが各地に見られるが。
日本を代表するスミレがタチツボスミレである。
同じタチツボスミレ、蕾。
タチツビヒゴスミレ。
日本にはスミレの仲間は変種を含めれば50種~70種にも及ぶと言われ、
見分けるのも大変です。
葉に細かく裂れ込みが入るスミレの仲間です。
一輪草。
一輪草、二輪草の違い。
踊り子草。
似たような言い方の花に「姫踊り子草」があるが背丈・葉や花の大きさ
とも半分以下で小さいため「姫」の名を冠して呼ばれる
高さは30~50cmくらいになる。葉は対生しその形は
卵状3角形から広卵形で上部の葉は卵形で先がとがり
縁は粗い鋸歯状になり、基部は浅心形で葉柄がある。
花期は4~6月で、唇形の白色またはピンク色の花を、
数個輪生状態になって茎の上部の葉腋に数段につける。
花のつき方が、笠をかぶった踊り子達が並んだ姿にている
ことからこの名がついた
ヤマブキソウ
山吹草、落葉樹林やまばらな常緑樹林の中や縁など、林内でも
比較的明るい場所に生活する植物です。
群落を形成することが多く、単体で見ることは少ないです。
本州から九州に分布しますが、野生はめっぽう数が減少しており、
自治体によっては絶滅危惧種に指定されていることもあります。
花姿がヤマブキに似ており、草なのでヤマブキソウの名前がありますが
ヤマブキとは科も違い分類上縁はありません。
山吹草
この様に群生しています。
げじげじシダ。
夏緑性のシダ植物。
路傍などに生育する。羽片は交互に出て、基部が中軸に流れて
翼となるので、全体から見ればジグザクに見える。
その形がゲジゲジに見えるからでしょうか。
ゲジゲジというより、ジグザクシダと言いたい様な形で、わかりやすい。
アスカイノデ。
今までも至る所にあったはずだが、ほとんど
気に留めていなかった羊歯。
葉表面は深い緑色、著しく光沢がある。
小羽片の鋸歯の先は芒状になる。
分布は近畿南部以北東の本州、四国の暖地の海岸近くの低山地林。
クロモジの花芽。
黒文字の名は若枝の表面にでる斑紋を文字に見立てたものといわれる。
古くからこれを削って楊枝を作る。特に根本に皮を残すのが上品とされる。
現在でも和菓子など特に選ばれたところではクロモジの楊枝が使われる。
綺麗に咲いたチューリップ。
此れで泉の森・ふれあいの森散策を終わります。
いつも、いろいろな事を教えていただいて居ます同行の皆さん
有り難うございました。
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泉の森・ふれあいの森 1/2
http://a7617.exblog.jp/21714371/
2015-04-16T20:03:00+09:00
2015-04-17T07:49:32+09:00
2015-04-16T11:17:12+09:00
a7617
未分類
昨年の秋にも行きましたが、時期が違えば見る花も違って
居ますので期待していきました。
当日(4月14日火曜日)はあいにくの雨模様、一日中小雨が降ったり
止んだりの天気でしたが、楽しくいってきました。
写真は二回に別けて貼ります。
マンホールの蓋。
ツユクサ。
露草、一年生植物。
畑の隅や道端で見かけることの多い雑草である。
朝咲いた花が昼しぼむことが朝露を連想させることから
「露草」と名付けられたという説がある。
コデマリ。
花が咲いているときには「コデマリ」だとすぐにわかりますが
蕾ですとわかりにくいね。
小手毬、バラ科シモツケ属の落葉低木。別名、スズカケ。
中国(中南部)原産で、日本では帰化植物。
カラタチ。
枳殻、枸橘漢字ではこう書きますが難しい字ですね。
原産地は長江上流域。
日本には8世紀頃には伝わっていたとされる。
カラタチの名は唐橘(からたちばな)が詰まったもの。
花のあとには3-4センチの球形で緑色の実をつける。
秋には熟して黄色くなる。
果実には種が多く、また酸味と苦味が強いため食用にならない。
花と果実には芳香がある。
カロライナジャスミン。
生育旺盛で長くつるを伸ばし、春にラッパ状の黄色い花を株いっぱいに咲かせます。
花にはジャスミンに似た芳香がありますが、ジャスミンの仲間ではありません。
ノースボール。
12月から翌6月にかけ、この様な花を咲かせる
キク科 フランスギク属の半耐寒性多年草である。
しかし、高温多湿に極端に弱いため、国内では一年草として扱われている。
「ノースポール」はサカタのタネの商品名であるが、
種苗登録などはされていないため、一般名として定着している。
名の由来は、花付がよく株全体を真っ白に覆うように見えるところが北極を連想させることによる。
白花蘇芳。
花蘇芳には、真っ白な「白花蘇芳」というのがこれです。
あまり見かけませんね。
蘇芳色(すおういろ)と言う言い方が有ります、赤やピンクを表す日本の呼び方の一つです。
紫がかった赤を指す名称のようですが、まさに、「花蘇芳」の花の色です。
其の「蘇芳色」の染料は、「蘇芳」の樹皮や実を用いているそうです。
花からではなく、樹皮や実からとった色が、布や紙を「蘇芳色」に染めるそうです。
藤棚とチューリップ。
ウラシマソウ。
浦島草、春、太い花穂が伸びてくる。
花穂から伸びる、細長いひょろひょろを、浦島太郎の釣り糸に見立てた野でしょう。
秋に赤い実をつける、有毒ですが食べる人はいないでしょう。
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小金井公園の山桜・大島桜 2/2
http://a7617.exblog.jp/21710484/
2015-04-14T19:52:00+09:00
2015-04-14T23:43:51+09:00
2015-04-14T19:52:12+09:00
a7617
未分類
二回目になります。
お目当てのオオシマサクラの巨木を見て食事、休憩をしてから
さらに見物いたしました。
今日は小雨を覚悟してきましたが、いまのところまだ降ってきません。
ウワミズサクラ
漢字では「上溝桜」とされていますが、溝というのは亀甲に刻まれている溝のことを示しています。
亀甲を熱してその割れ方で占いをする亀卜(キボク)は選択無形民俗文化財となっている
長崎県対馬の風習(「対馬の亀卜習俗」)が有名ですが、鹿の肩甲骨を焼くものもあります。
ウワミズザクラの若い花穂(未熟果)を塩漬けにしたものを、
新潟県などでは酒の肴や料理のアクセントに使われています。
紅枝垂れ。
4月、枝垂れた枝に紅紫色の一重の五弁花を咲かせます。
江戸彼岸の枝垂れ型で、花色が濃いです。
もっと花色が薄い桜に、シダレザクラ(枝垂桜)があります。
枝垂桜より後に咲き、花は平開しません。
どの植物にも言えますが、この時期にしか見られない
藤の花芽です。
これは欅の木の先端部分ですが、枝先の葉の付き方にムラが有ります。
見てお分かりになりますか。
ニレ科の木の中ではこの木だけの現象ですが
理由はご説明を聞きました良く理解できませんでした。
ハナミヅキ。
花水木、ハナミズキの名は、ミズキの仲間で花が目立つことに由来する。
また、アメリカヤマボウシの名は、アメリカ原産で日本の
近縁種のヤマボウシに似ていることから。
蕾。
花弁のように見えるのは総苞で、中心の塊が花序である。
実際の花は、20数個である。
4弁の直径5mm程度の目立たない花が集合して、順次開花する。
此の花壇のチューリップはボランティアの方が
手入れ、作っていただいたと書かれていました。
白妙。
4月中旬に咲きます八重咲花の大きさ:大輪
シロタエの名から純白の花と思われがちだが、花弁の外面 には薄い紅色が少し出ている。
ハナズオウ。
ハナズオウ(花蘇芳)春に咲く花が美しいためよく栽培される。
早春に枝に花芽を多数つけ、3-4月頃葉に先立って開花する。
花には花柄がなく、枝から直接に花がついている。
花は紅色から赤紫(白花品種もある)で長さ1cmほどの蝶形花。
開花後、長さ数cmの豆果をつけ、秋から冬に黒褐色に熟す。
花蘇芳の名は、花弁の色がスオウ(蘇芳)で染めた色に似ているため。
白山吹。
シロヤマブキとヤマブキの違い 。
シロヤマブキはシロヤマブキ属で、ヤマブキはヤマブキ属です。
シロヤマブキが4弁花で、ヤマブキは五弁花です。
シロヤマブキの萼は4枚で、ヤマブキ5枚です。
シロヤマブキの葉は対生で、ヤマブキは互生して付きます
山吹。
八重咲、この花には実はならない。
紅白混じって咲いている花桃。
想いのまま、源平咲きなどと言うが「キメラ現象」である。
ニリンソウ。
二輪草、深く裂けた根生葉を持つ。
茎に3枚が輪生する葉には、サンリンソウのような柄はない。
3・6月に、白い萼片を持つ直径約2 cmの花をつける。
多くは1本の茎から特徴的に2輪ずつ花茎が伸びる。
和名の由来はここから来ました。
まれに1輪や3輪のものもある。根茎で増えるため、群落を作ることが多い。
雌雄異株、青木の雄花、黄色い花粉が見える。
青木の雌花。
公園内に在った蒸気機関車の展示。
ウコン。
鬱金は開花時期はソメイヨシノより遅めの4月中旬頃である。
花弁に葉緑体をもつなど性質はギョイコウ(御衣黄)に似ているが、
色は緑色が弱く淡黄色である。数百品種あるサクラのうちで唯一、
黄色の花を咲かせるサクラである。
名前はショウガ科のウコンの根を染料に用いた鬱金色に由来し、
それらと混同されないよう「鬱金桜」あるいは「鬱金の桜」と呼ばれることもある。
今回の散策、緋が4月10日と桜の時期にしては遅くないかと
心配いたしましたが、大島桜、山桜ともに真っ盛り。
特に目当ての大島桜の満開、香りも遠くか漂っていました。
天気は雨模様でしたがどうにか最後までもってくれました。
同行の皆さん、お世話になりました。
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小金井公園の山桜・大島桜 1/2
http://a7617.exblog.jp/21706516/
2015-04-13T09:36:00+09:00
2015-04-14T19:50:49+09:00
2015-04-13T09:36:55+09:00
a7617
未分類
この写真は4月10日(金曜日)に撮ったもので
写真は二回に分けて貼ります。
此の公園は
玉川上水沿いに位置した、面積77ヘクタール(日比谷公園の4.7倍、上野公園の1.4倍)
の広大な公園です。
この公園は広々とした草地、それを取り巻く雑木林、桜の園、子どもの広場、弓道場、SL(C57)展示、16面のテニスコートと内容豊かな公園です。
この公園の前身は、昭和15年の紀元2600年記念事業で計画された小金井大緑地です。
戦後、東宮仮寓所(かぐうしょ)に使用され、当時の皇太子殿下(今上陛下)が居られたところです。
昭和29年に都市公園として開園しました。
その後順次拡大され、現在に至っています。
此処には江戸東京建物園があり数回見学に来ています。
また昨年には梅の花を見に来ました。
桜の時期に来たのは初めてです。
今回の目的はオオシマサクラの巨木を見るのが主で
さいわい満開の花と良い香りを楽しむことができました。
JR武蔵小金井駅からバスで5分ほどで公園の西側に着きます。
すぐ眼に入ったがこの桜「太白」。
大きな一重の花を咲かせる桜。
日本では一度絶滅したとされるが、イギリスで桜研究家により
栽培されていたものが逆輸入されて再度普及した。
逆輸入された際に、命名された。
特に、山梨県甲府市の甲府駅北口歴史公園にあるものが有名であり
、同地では2012年から「太白桜まつり」が開催されている。
花弁の大きさでは、一重の桜の中で最大と言われ4Cmもあります。
一葉。
染井吉野が咲き終わったころに咲き始めます。
江戸。
嵐山。
白雪。
カスミザクラ系の園芸品種で「サトザクラ(里桜)の仲間に分類されます。
4月中旬ごろ、真っ白な一重の花を咲かせます。花弁は丸くて、
萼筒や花柄がやや太く短めで毛があることが特徴です。
むかし「サトザクラ」の名所として有名な荒川堤にあった品種です。
何かの理由で切られた後からまた、ヒコバエが出てこのように咲いています。
頑張ったな。
御車返し。
御車返しの名は、車上の人が一重か八重か言い争って
車を引き返したことにあったと、言い伝えられています。
一枝の中に一重と八重の花があるのが特徴です。
駿河台匂。
花は大輪、一重咲きで白色。開花期は4月下旬。
昔、江戸駿河台の庭園にあったのでこの名がつけられたといわれる桜です。
花に芳香のある匂い桜の中でも特に香りが強い桜です。
辛うじて一輪咲いていました。
まだこんな姿でした。
山櫻と新緑。
薄墨。
有名な根尾谷淡墨ザクラとは違う品種です。
公園の正面付近は染井吉野がほとんどです。
殆んど散っていました。
霞桜。
桜の野生種の一種。花柄に短い毛が生えているためにケヤマザクラなどとも呼ばれる。
命名の由来は遠くから見たこの樹の様子が霞のように見えることからきている。
良く見ると小花柄(ショウカヘイ)に毛が有ります。
ヤマザクラ系統の他のオオシマザクラ、狭義(種名)のヤマザクラには、
この花軸に、正しくは小花柄に毛がありません。
(同行のTさんお話)
枝垂れ桜。
すでに可愛いサクランボウが着いていました。
この桜を観たくて来ました。
おおきいね~
多少時期は過ぎていたが、ほぼ満開。
香りも木が大きいせいかとても強かったです。
左側に寄ってみました。
実物を見ないと凄さがわかり難いとは思いますが、
ワイドで撮ってみました。
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稲毛領主 稲毛三郎重成の足跡を辿る 2/2
http://a7617.exblog.jp/21703722/
2015-04-12T08:24:00+09:00
2015-04-12T09:36:34+09:00
2015-04-12T08:24:52+09:00
a7617
未分類
講座川崎学まち歩きWS
一回目の街歩きは表題の通りです。
この講座(稲毛領主 稲毛三郎重成の足跡を辿る)は四回に別けて行われます。
(かわさき学の講座は全九回)
初回は「稲毛三郎重成の領地の城跡を巡る」です。
此れで二回目、稲毛三郎重成の足跡を辿るは終わります。
坂道を10分ほど登ると桝形山広場に着きました。
桝形城のこの門はもちろん当時のものではありません。
こういう形の冠木(かぶき)を渡した、屋根のない門を冠木門(かぶきもん)と言います。
桝形山頂上。
小山田有重の子稲毛三郎重成により築かれたと伝わる此処に桝形城が有りました。
枡形城は長尾神社から望遠した多摩丘陵の先端に位置し、
四方を断崖で囲まれた天然の要害の地です。
幾多の変遷を経て戦国時代以降は廃城となり、
現在、展望台が作られ生田緑地に公園として保存されている。
桝形山展望台。
展望台上から溝の口方向をみました。
この日は雨で展望が聞きません。
展望については前の写真「桝形山展望台」で見てください。
これは多摩川を前ににした城、砦のおおざっぱな配置図ですが
12世紀ころ、多摩川に限りませんが軍兵が川を渡るということは
今では想像もつかないほどの困難が伴わったと聞きました。
言い換えれば、大河と言うものが天然の防御線であったということです。
桝形城公園を後にして廣福寺に着きました。
広福寺は枡形城址の北側のふもとにある寺院で、
その門には「稲毛領主菩提寺 稲毛館跡」と書かれた扁額が懸けられています。
寺地には、稲毛三郎重成の館跡ともいわれており、
本堂内には木造稲毛重成坐像(桃山時代作)が祀られているほか、
観音堂の裏には重成の墓といわれている五輪塔が伝えられています。
はっきりしたことは判りませんが、昔の門の上に架かっていた大きな天狗の面。
稲毛三郎と妻元子(北条雅子の妹)の墓です。
屋根のある五輪塔が稲毛三郎の墓で、左の小さな塔が元子の墓。
上の写真では元子の墓が見えにくいのでもう一枚貼ります。
左の石版と右の稲毛の三郎の墓の屋根の柱の間に在る小さな塔がそうです。
なお余談ですが稲毛の三郎の妻元子がなくなり稲毛の三郎が供養のために
相模川に橋を架けた。
現在の相模川から想像する大河に鎌倉時代に橋を架けたとは考えられない。
関東大震災で相模川周辺に液状化現象が起こり、
現在の馬入橋から1kmほど東に鎌倉期の橋脚が現われた。
小出川のある、新湘南バイパス茅ヶ崎西ICあたりである。
当時の相模川は支流がいくつも分かれており、
現在の小出川も、相模川なのか小出川なのか、
区別があいまいだったようだ。
その後の調査で稲毛氏が橋供養で橋を架けたのは、
現在の小出川であることがわかった。
橋脚跡が、ニトリ茅ヶ崎店の前に整備されている。
この橋供養の席上でさらなる不幸が起こった。
頼朝の乗った馬が暴走して頼朝は落馬。
その時の怪我がもとで翌年1月、頼朝はこの世を去る。
51歳の生涯だった。
またその時暴走した馬が相模川に飛び込んだために
この川を「馬入川」と呼ぶようになったという。
と言う様な伝承があるが正確なことはわからない。
雨が降ったせいか綺麗ですね。
仏足石(ぶっそくせき)とは、釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象としたものですが、
古代インドでは像を造る習慣がなかったため、このような仏足石や菩提樹などを用いて、
釈迦やブッダを表現したといいます。
境内に咲いていました。
綺麗な西洋石楠花。
花期は4から6月くらいの常緑の低木です。
欧米で育成された園芸種などを総称して「セイヨウ(西洋)シャクナゲ」と呼びます。
西洋シャクナゲの日本原産のシャクナゲとは違うところは、
花がこのように大きく、花色もカラフルで数多くの品種があるということです。
とくに、花が枝の頂点にさく品種(頂生といいます)が特に美しくこのように
満開の時期は見事です。
お寺を見学してから、小田急向ヶ丘遊園駅にて解散。
此れで稲毛三郎重成の領地の城跡を巡るを終わります。
遅くなりましたが講師は町田ウオークガイドの会 近藤安雄氏です。
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稲毛領主 稲毛三郎重成の足跡を辿る 1/2
http://a7617.exblog.jp/21701273/
2015-04-11T08:16:00+09:00
2015-04-12T08:18:48+09:00
2015-04-11T08:16:51+09:00
a7617
未分類
講座川崎学まち歩きWS
一回目の街歩きは表題の通りです。
この講座(稲毛領主 稲毛三郎重成の足跡を辿る)は四回に別けて行われます。
(かわさき学の講座は全九回)
初回は「稲毛三郎重成の領地の城跡を巡る」です。
写真は二回に別けて貼ります。
受講生32名のうち、女性が12名も居られて、あら多いねと
意外な気がしました。
実施日(まち歩き)は4月8日(水曜日)でした。
稲毛 重成(いなげ しげなり)は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で鎌倉幕府の御家人。
桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族。
武蔵国稲毛荘を領した。
父は小山田氏の祖・小山田有重。畠山重忠は従兄弟にあたる。
そもそも「武蔵野国」稲毛庄の領主であるとの話から始まったが「稲毛」と言えば
近所に在る「稲毛神社」くらいしか頭にはなく、予備知識のない
私にとって雲をつかむような話の連続。
稲毛の三郎の稲毛と言う名乗り、当時の侍はその土地の地名を名乗ったという。
有名なのは足利尊氏、新田義貞、熊谷直実・・・がある。
始めてしまった以上頑張って付いていきます。
お仲間の皆さん、よろしくお願いいたします。
今日の集合場所、JR南武線の津田山駅。
津田山駅から緩い坂を上ると「市営緑ヶ丘 霊園」が有り、
桜の名所として有名です。
その霊園の中にこの「作延城」跡の碑が有ります。
多摩川の右岸に沿って延びる多摩丘陵は自然の要害を成し、
中世の頃鎌倉を守る外側の防衛線として点々と山城が築かれました。
今日、その伝承されるものには小沢城・枡形城・作延城などがあり、
また源氏の祈願所で頼朝の弟、全成が院主となった、
威光寺(現・妙楽寺)も丘陵の一画を占めていました。
当地は、山城を構えるのに相応しい地形であり、『新編武蔵風土記稿』は城山堀・矢倉塚・天守台などの地名をあげ、この付近を作延城の跡と推定しています。なを、世間では鎌倉時代の初期、ここから西4kの枡形山(現・生田緑地)に本拠を構えた稲毛三郎重成が築いたものと云われています。
(現地案内板より)
今では霊園の敷地となり遺構らしきものはない。
霊園の中のこんな道を歩きました。
五所塚。
この様な塚は日本中、至る所の在るようです。
古来、私たちの父祖は、隣の村で悪い病気が流行したときには、
自分達の村に害が及ばないようさまざまな祭祀(さいし)をしました。
五所塚(ごしょづか)第1公園内には、直径4m内外、高さ2m前後の塚が
5つ南北に並んでおりますが、地元では古くからこれを五所塚と呼んできました。
外観が古墳時代の高塚古墳に似ているところから、
江戸時代の地誌等では、墳墓と考えられていました。
しかし、遺骨がまったく出てこないところから実際には中世や近世になって、
村境や尾根筋に築かれた十三塚と同様な信仰に基づく〔境〕
信仰の塚であったと考えられています。
簡単に言えば村の外から「厄災」が入ってこないおまじないです。
妙楽寺。
長尾寺とも威光寺ともいわれ、源家累代の祈祷所とする長尾山威光寺であった。
851年(仁寿元年)天台宗の円仁が威光寺を建立したという。
源頼朝が鎌倉時代の初期1180年(治承4年)に頼朝の弟(常盤御前の三人のこのうち
長男の今若丸(阿野全成)に長尾寺をに与えた。
1000株のアジサイが植えられて「あじさい寺」として親しまれており、
毎年6月の第3日曜日には「長尾の里 あじさいまつり」が開催されている。
長尾神社。
五所塚、威光寺とともに長尾砦が有った。
多摩区長尾の最高の丘陵にあり、元は当社の南側に五つの古塚があり五所塚権現と
称していたが、明治40年12月、それらと赤城神社を合併し、村社・長尾神社と改称された。
正月7日、長尾(ながお)神社では、「マトー」と呼ばれる射的(いまと)行事が行われます。
この行事は年頭にあたって神前で的を射て、その年の五穀豊饒と村内安全を祈る
予祝(よしゅく)行事です。
射的祭りは、広く全国的に見られる行事で、射手が馬に乗って矢を射る流鏑馬(やぶさめ)と、
馬を用いない歩射(ぶしゃ)という形式があります。
今は切り通しがあるが、かっては向ヶ丘丘陵に続いていました。
前方は向ヶ丘方面。
歩いていた途中で見た「黄梅」。
向ヶ丘丘陵の桜。
稲毛三郎重成の本城「桝形城」に続く多摩川を見下ろす台地。
その本城桝形城と支城をつなぐ連絡路が設けられていた。
諸葛菜。
「大紫羅欄花」(おおあらせいとう)」
「紫花菜」(むらさきはなな)
三国志の諸葛孔明が 出陣のさきざきでこの種子をまき、
兵士の食糧となるよう栽培したことからこの名がついたというが。
しかしこんな物食糧に成っただろうか。
さらに歩いて桝形城のある生田緑地に着きました。
生田緑地公園の東口から枡形山にはいるとすぐに、
枡形山の地質の解説板があります。
一番下の青いところ・・・上総層群飯室層。
約140万年前〜約120万年前頃、海底にたまってできた地層。
貝や海獣の化石が出ている。
その上の黄色いところ・・・おし沼砂礫層。
約30万年前、間氷期で海面が高かったときにできた地層。
小さくて、丸くて、平べったい石が多い。
その上の褐色のところ・・・関東ローム。
種々の時代のローム層と、ローム層に割り込んで堆積している
軽石などの層(ゴマシオ軽石層とか三色アイス軽石層)。
こういう注意書きが有りました。
地層です。
ほじくり返して貝の化石を採る不届き物がいるらしいです。
当日はこの時期にしては気温が低く駅の温度計で「5℃」でした。
おまけに小雨模様で、寒さに震えながらの見学でした。
とわ言いながら先生の適当なダジャレに大笑いしながら
生徒一同楽しく勉強させていただきました。
先生のダジャレをひとつ紹介します。
「今鳴いている鶯はナニシュウの信者だと思いますか」
一同「きょとん」
先生
「ホー・ホケキョオ(法華経)・・日蓮宗の信者です」
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江戸東京博物館
http://a7617.exblog.jp/21696464/
2015-04-09T09:19:00+09:00
2015-04-09T20:15:39+09:00
2015-04-09T09:19:13+09:00
a7617
未分類
特別展、関ケ原展も見学してきました。
人の考えることは皆同じで、この悪天候にかかわらず大勢の見物客で
会場は人で溢れかえっていました。
また、ヨーロッパ系の観光客が多いのにびっくり。
ボランティアらしきガイドが英語で展示品の説明をしていました。
関ケ原展で印象に残ったものは、秀吉が死の間際に有力大名に
わが子秀頼の事を頼んだという「誓紙」を見られた事です。
口語体の文で解説が書かれていましたので、判りやすく各有力大名が
「秀頼様の事は粗末に致しません・・・」と言うことが記してありました。
想像していたより意外と大きな紙なので驚きました、A3をもう一回り
大きくしたほどの大きさでした。
しかしこんな物が何の役にも立たなかったのはのちの歴史が示しています。
関ケ原展を見てから常設展を見学。
行ってから気が付きましたが、ここは1993年開館以来初めて常設展示を刷新したそうです。
模型展示の「幕末の江戸城200分の1の模型」「ひばりが丘団地の室内模型」を復元しました。
日本橋の上から見た「朝野新聞社」
日本橋問屋、商店街。
今回新設された江戸城の200分1の模型。
幕末の江戸城と説明してありましたが、江戸城天守閣は1657年の「明暦の大火」で
焼失して幕末には天守閣はなかったはずですが、この模型ではあります。
焼けた後の再建計画の図面を基に復元。
時間的な混在を承知のうえで江戸城の構造をわかりやすく見せる事を優先したそうです
写真でわかり難いとは思いますがそばでじっくり見ると良くできていて
飽きさせませんね。
此れが上にも記しましたが幕末にはなかった天守閣。
説明文と地図。
江戸庶民の普通の食膳。
江戸時代のいつ頃のなのか見をとしました。
神田明神の山車。
徳川家康が関東に江戸幕府を開き、江戸府内の町や寺社が発展してゆく中で、
山王権現(現日枝神社)は家康以来の徳川家の守り神として、
また神田明神は江戸の総鎮守とされ、その祭礼の行列(神幸祭)は
将軍の上覧を受け天下祭と呼ばれるに至った。
その渡御する神輿には各氏子町より山車練り物が付き添った。
神田明神の祭礼行列模型を見る外人観光客。
日本橋。
歌舞伎。
今回の昼食は駅に隣接している「花の舞」で。
想像していたよりリーズナブルな価格で驚きました。
此れで税込800円でした。
近所のサラリーマンらしき客も大勢来ていました。
店内には土俵が有ります。
集合記念写真を撮ろうとして店員さんに聞きましたら
女性は土俵の上に上がってはいけませんと言われ断念。
これは両国駅のホーム上屋を支えている柱ですが、良く見ると古いレールが
綺麗に曲げられて優美な曲線をえがいていることに気づきます。
さらに見ると此のレールには英数字の刻印が見られます。
その刻印によっていつ、どこで作られたものかがわかります。
明治の鉄道レールはほとんどがドイツ、英国などから輸入されたものが多く
鋼材の質も良くレールの使命を終えた後建築資材として利用されています。
この駅以外でも東京近郊の駅には良く見られます。
何年ぶりに見学に行ってみましたが、博物館と言うものは
何回行っても面白く、新しい発見が有り楽しいですね。
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