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稲毛領主 稲毛三郎重成の足跡を辿る (国分寺)

「川崎市民アカデミー」



講座川崎学まち歩きWS

今回のまち歩きは、鎌倉時代の武将「畠山重忠」の関連場所と
国分寺付近を散策いたしました。


畠山 重忠(はたけやま しげただ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。
鎌倉幕府の有力御家人。

源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍。
知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。

館は、鎌倉筋替橋の東南。

存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」
と言われていた立派に人物であったという。

しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって
謀反の疑いをかけられて子とともに討たれ(畠山重忠の乱)、子孫は名字を変えた。

この様に、頼朝以来の功臣、有力武将は北条幕府による謀略によって次々と
滅ぼされていった。



と言う話を前提にして散策をいたしました。
また、「国分寺」 、 「東山道武蔵路」についても勉強いたします。



出発、集合場所は西国分寺駅
そこから歩いて10分ほどのところに在った、「姿見の池」

源平争乱の頃、遊女の夙妻太夫(あさづまたゆう)と坂東武者で名将といわれた
畠山重忠とが恋におちました。ところが太夫に横恋慕、する一人の男がいて、
その男は重忠が平家との西国の戦で討ち死にした嘘をつき、
あきらめさせようとしましたが、深く悲しんだ太夫は姿見の池に
身を投げてしまったと言い伝えられています。

そ言う伝説からこの付近を「恋ヶ窪」と言う地名になっています。

この池は後から作られたものです。
このように伝承に彩られた姿見の池は、昭和四十年代に埋め立てられましたが、
平成十年度、「そんな良い伝承があるのなら」と昔の池をイメージして整備しました。

もっと言えば別の場所に在ったそうです。

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この表示を見るとこの池がここの無かったと想像する人はいませんね。

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池に水を引き入れている恋ヶ窪用水。
草に埋もれて、流れが見えない。

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「一葉(ヒトハ)の松」伝説。
姿見の池に身を投げた夙妻太夫(あさづまたゆう)を憐れんだ
土地の人が供養のために松を植えました。
なぜかその松の葉は、対に出ていないで一本しかなかったといいます。
またその松の葉はすべて西の方を向いていたという伝説があります。
その松のある「東方寺」
鎌倉時代に在ったものとしては小ぶりですね。

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府中街道に在ったベニバナトキワマンサク。
此の辺りはこの木の並木道になっています。

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市立歴史公園にある「史跡東山道武蔵路」
この通りは公道としても利用されています。
なぜこのような道が必要であったのでしょう。

説明版より。
東山道武蔵路は古代官道である東山道が上野国から武蔵国府に立ち寄り、
再び下野国に戻る支道で、当時駅路と呼ばれる道で、
現在一般に武蔵国を通る東山道の支道ということで「東山道武蔵路」と
呼ばれている道なのです。
以前は古代の道といえば自然発生的な道を多少発展させた程度の
道と考えられていましたが、近年の考古学の道路発掘の進展により、
側溝をともなった幅広の直線道路であることが判明してきています。
国分寺市の旧国鉄中央学園跡地内から340メートルにも及ぶ遺構が発掘され、
指定地区では総延長約490メートルにわたり道路遺構が確認されているということです。
国分寺市のこの道路遺跡は古代道路の研究に新たな道路変遷の遺構を検出しています。

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中世の東海道。
私は東海道とは江戸から京都までだと思って居ました。
当時の東海道とは今の茨城県付近までを含んで居ました。

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大きく、詳しく書かれた立派な説明版。

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東山道武蔵路跡を見学、解説を聞いた後「都立武蔵国分寺公園」の中を通りました。
桜「ウコン」です。

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八重の桜です、名前は判りません。

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公園を抜けて「国分寺崖線」を見ます。
何度も来ている場所です、相変わらずきれいな水が湧いていました。

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その湧水の脇に「真姿の池」が有ります。

848年、玉造小町という美しい女性が病気にかかり顔が腫れ醜くなってしまったが、
国分寺の薬師如来で願をかけると、この池で身を清めるようにとのお告げがあり、
その通りにするとたちまち病気が治り、もとの美しい顔に戻ったという。

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さらにお鷹の道から国分寺に向かいます。

その名は国分寺周辺が江戸時代に尾張徳川家
の御鷹場となっていたことに由来します。

ちなみに
三鷹の名は、かつて徳川将軍家及び御三家が鷹狩を行なった
鷹場の村々が集まっていたことと、世田谷領・府中領・野方領に
またがっていたことに由来する(三領の鷹場)と言われている。

お鷹場になった村々の負担は大変なもので有ったらしい。
獲物がないと殿様や将軍が不機嫌になるので、鷹狩があると聞くと
村々の人はあらかじめ獲物を用意しておいたという。

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「武蔵国分寺跡資料館」の敷地の中に在る七重の塔の模型。

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現在の国分寺。

奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、
武蔵国国分寺の後継寺院にあたる。

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現在の楼門。

此の楼門は米津寺(東久留米市)の楼門を明治28年に移築したもの。
市の文化財に指定されている。

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国分尼寺の跡地。

「尼寺」は東山道武蔵路の西側に建立されました。
現在は史跡の保存整備も終了しています。
平成19年「日本の歴史公園100選」に選定されました。
桜の時期は綺麗でしょうね。

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宿坊跡。

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武蔵国分尼寺を見学してから。
「伝鎌倉古道」を歩きました。



鎌倉時代に、幕府所在地である鎌倉と各地を結び、
周辺諸国の武士団や物資を運ぶ幹線道路 が整備されました。



現在の「鎌倉街道」の名は、近世になって使用されたものであり、
鎌倉当時は武蔵国内を通過する主要道路は上の道、中の道、下の道と
呼称されてい ました。鎌倉以前の幹線道路である東山道と
道筋の重なる「上の道」が、現在の鎌倉街道にあたります。

鎌倉から町田・府中を経て、国分寺市内の
武蔵国分尼寺跡西側-泉町交差点付近-小平を通り、
上野(群馬県)、信濃(長野県)方面に のびており、
市立歴史公園(武蔵国分尼寺跡)の北側に約120mの道が
「鎌倉上道」の名残と云われて保存されています。

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この鎌倉街道の脇に何に使われていたのか判らない塚が有ります。
登ってみました 。

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塚の上から国分寺方面が良く見えます。

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本日の散策の解散地 国分寺駅。

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今回の散策は稲毛三郎重成と同時代の畠山重忠について、
またお鷹の道の由来、武蔵国分寺、尼寺、について勉強いたしました。

印象が強かったのは様々な古道が有ったことや東海道、私の認識と
大きく違っていたのに驚きました。
武蔵野国が想像するより大きかったこと等々、新しい発見が有りました。

今回も同行して様々な事を解りやすく教えていただいた
皆様、ありがとうございました。
by a7617 | 2015-04-20 10:32