日常のこと
by a7617
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稲毛領主 稲毛三郎重成の足跡を辿る 1/2
「川崎市民アカデミー」
講座川崎学まち歩きWS
一回目の街歩きは表題の通りです。
この講座(稲毛領主 稲毛三郎重成の足跡を辿る)は四回に別けて行われます。
(かわさき学の講座は全九回)
初回は「稲毛三郎重成の領地の城跡を巡る」です。
写真は二回に別けて貼ります。
受講生32名のうち、女性が12名も居られて、あら多いねと
意外な気がしました。
実施日(まち歩き)は4月8日(水曜日)でした。
稲毛 重成(いなげ しげなり)は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で鎌倉幕府の御家人。
桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族。
武蔵国稲毛荘を領した。
父は小山田氏の祖・小山田有重。畠山重忠は従兄弟にあたる。
そもそも「武蔵野国」稲毛庄の領主であるとの話から始まったが「稲毛」と言えば
近所に在る「稲毛神社」くらいしか頭にはなく、予備知識のない
私にとって雲をつかむような話の連続。
稲毛の三郎の稲毛と言う名乗り、当時の侍はその土地の地名を名乗ったという。
有名なのは足利尊氏、新田義貞、熊谷直実・・・がある。
始めてしまった以上頑張って付いていきます。
お仲間の皆さん、よろしくお願いいたします。
今日の集合場所、JR南武線の津田山駅。
津田山駅から緩い坂を上ると「市営緑ヶ丘 霊園」が有り、
桜の名所として有名です。
その霊園の中にこの「作延城」跡の碑が有ります。
多摩川の右岸に沿って延びる多摩丘陵は自然の要害を成し、
中世の頃鎌倉を守る外側の防衛線として点々と山城が築かれました。
今日、その伝承されるものには小沢城・枡形城・作延城などがあり、
また源氏の祈願所で頼朝の弟、全成が院主となった、
威光寺(現・妙楽寺)も丘陵の一画を占めていました。
当地は、山城を構えるのに相応しい地形であり、『新編武蔵風土記稿』は城山堀・矢倉塚・天守台などの地名をあげ、この付近を作延城の跡と推定しています。なを、世間では鎌倉時代の初期、ここから西4kの枡形山(現・生田緑地)に本拠を構えた稲毛三郎重成が築いたものと云われています。
(現地案内板より)
今では霊園の敷地となり遺構らしきものはない。
霊園の中のこんな道を歩きました。
五所塚。
この様な塚は日本中、至る所の在るようです。
古来、私たちの父祖は、隣の村で悪い病気が流行したときには、
自分達の村に害が及ばないようさまざまな祭祀(さいし)をしました。
五所塚(ごしょづか)第1公園内には、直径4m内外、高さ2m前後の塚が
5つ南北に並んでおりますが、地元では古くからこれを五所塚と呼んできました。
外観が古墳時代の高塚古墳に似ているところから、
江戸時代の地誌等では、墳墓と考えられていました。
しかし、遺骨がまったく出てこないところから実際には中世や近世になって、
村境や尾根筋に築かれた十三塚と同様な信仰に基づく〔境〕
信仰の塚であったと考えられています。
簡単に言えば村の外から「厄災」が入ってこないおまじないです。
妙楽寺。
長尾寺とも威光寺ともいわれ、源家累代の祈祷所とする長尾山威光寺であった。
851年(仁寿元年)天台宗の円仁が威光寺を建立したという。
源頼朝が鎌倉時代の初期1180年(治承4年)に頼朝の弟(常盤御前の三人のこのうち
長男の今若丸(阿野全成)に長尾寺をに与えた。
1000株のアジサイが植えられて「あじさい寺」として親しまれており、
毎年6月の第3日曜日には「長尾の里 あじさいまつり」が開催されている。
長尾神社。
五所塚、威光寺とともに長尾砦が有った。
多摩区長尾の最高の丘陵にあり、元は当社の南側に五つの古塚があり五所塚権現と
称していたが、明治40年12月、それらと赤城神社を合併し、村社・長尾神社と改称された。
正月7日、長尾(ながお)神社では、「マトー」と呼ばれる射的(いまと)行事が行われます。
この行事は年頭にあたって神前で的を射て、その年の五穀豊饒と村内安全を祈る
予祝(よしゅく)行事です。
射的祭りは、広く全国的に見られる行事で、射手が馬に乗って矢を射る流鏑馬(やぶさめ)と、
馬を用いない歩射(ぶしゃ)という形式があります。
今は切り通しがあるが、かっては向ヶ丘丘陵に続いていました。
前方は向ヶ丘方面。
歩いていた途中で見た「黄梅」。
向ヶ丘丘陵の桜。
稲毛三郎重成の本城「桝形城」に続く多摩川を見下ろす台地。
その本城桝形城と支城をつなぐ連絡路が設けられていた。
諸葛菜。
「大紫羅欄花」(おおあらせいとう)」
「紫花菜」(むらさきはなな)
三国志の諸葛孔明が 出陣のさきざきでこの種子をまき、
兵士の食糧となるよう栽培したことからこの名がついたというが。
しかしこんな物食糧に成っただろうか。
さらに歩いて桝形城のある生田緑地に着きました。
生田緑地公園の東口から枡形山にはいるとすぐに、
枡形山の地質の解説板があります。
一番下の青いところ・・・上総層群飯室層。
約140万年前〜約120万年前頃、海底にたまってできた地層。
貝や海獣の化石が出ている。
その上の黄色いところ・・・おし沼砂礫層。
約30万年前、間氷期で海面が高かったときにできた地層。
小さくて、丸くて、平べったい石が多い。
その上の褐色のところ・・・関東ローム。
種々の時代のローム層と、ローム層に割り込んで堆積している
軽石などの層(ゴマシオ軽石層とか三色アイス軽石層)。
こういう注意書きが有りました。
地層です。
ほじくり返して貝の化石を採る不届き物がいるらしいです。
当日はこの時期にしては気温が低く駅の温度計で「5℃」でした。
おまけに小雨模様で、寒さに震えながらの見学でした。
とわ言いながら先生の適当なダジャレに大笑いしながら
生徒一同楽しく勉強させていただきました。
先生のダジャレをひとつ紹介します。
「今鳴いている鶯はナニシュウの信者だと思いますか」
一同「きょとん」
先生
「ホー・ホケキョオ(法華経)・・日蓮宗の信者です」
講座川崎学まち歩きWS
一回目の街歩きは表題の通りです。
この講座(稲毛領主 稲毛三郎重成の足跡を辿る)は四回に別けて行われます。
(かわさき学の講座は全九回)
初回は「稲毛三郎重成の領地の城跡を巡る」です。
写真は二回に別けて貼ります。
受講生32名のうち、女性が12名も居られて、あら多いねと
意外な気がしました。
実施日(まち歩き)は4月8日(水曜日)でした。
稲毛 重成(いなげ しげなり)は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で鎌倉幕府の御家人。
桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族。
武蔵国稲毛荘を領した。
父は小山田氏の祖・小山田有重。畠山重忠は従兄弟にあたる。
そもそも「武蔵野国」稲毛庄の領主であるとの話から始まったが「稲毛」と言えば
近所に在る「稲毛神社」くらいしか頭にはなく、予備知識のない
私にとって雲をつかむような話の連続。
稲毛の三郎の稲毛と言う名乗り、当時の侍はその土地の地名を名乗ったという。
有名なのは足利尊氏、新田義貞、熊谷直実・・・がある。
始めてしまった以上頑張って付いていきます。
お仲間の皆さん、よろしくお願いいたします。
今日の集合場所、JR南武線の津田山駅。
津田山駅から緩い坂を上ると「市営緑ヶ丘 霊園」が有り、
桜の名所として有名です。
その霊園の中にこの「作延城」跡の碑が有ります。
多摩川の右岸に沿って延びる多摩丘陵は自然の要害を成し、
中世の頃鎌倉を守る外側の防衛線として点々と山城が築かれました。
今日、その伝承されるものには小沢城・枡形城・作延城などがあり、
また源氏の祈願所で頼朝の弟、全成が院主となった、
威光寺(現・妙楽寺)も丘陵の一画を占めていました。
当地は、山城を構えるのに相応しい地形であり、『新編武蔵風土記稿』は城山堀・矢倉塚・天守台などの地名をあげ、この付近を作延城の跡と推定しています。なを、世間では鎌倉時代の初期、ここから西4kの枡形山(現・生田緑地)に本拠を構えた稲毛三郎重成が築いたものと云われています。
(現地案内板より)
今では霊園の敷地となり遺構らしきものはない。
霊園の中のこんな道を歩きました。
五所塚。
この様な塚は日本中、至る所の在るようです。
古来、私たちの父祖は、隣の村で悪い病気が流行したときには、
自分達の村に害が及ばないようさまざまな祭祀(さいし)をしました。
五所塚(ごしょづか)第1公園内には、直径4m内外、高さ2m前後の塚が
5つ南北に並んでおりますが、地元では古くからこれを五所塚と呼んできました。
外観が古墳時代の高塚古墳に似ているところから、
江戸時代の地誌等では、墳墓と考えられていました。
しかし、遺骨がまったく出てこないところから実際には中世や近世になって、
村境や尾根筋に築かれた十三塚と同様な信仰に基づく〔境〕
信仰の塚であったと考えられています。
簡単に言えば村の外から「厄災」が入ってこないおまじないです。
妙楽寺。
長尾寺とも威光寺ともいわれ、源家累代の祈祷所とする長尾山威光寺であった。
851年(仁寿元年)天台宗の円仁が威光寺を建立したという。
源頼朝が鎌倉時代の初期1180年(治承4年)に頼朝の弟(常盤御前の三人のこのうち
長男の今若丸(阿野全成)に長尾寺をに与えた。
1000株のアジサイが植えられて「あじさい寺」として親しまれており、
毎年6月の第3日曜日には「長尾の里 あじさいまつり」が開催されている。
長尾神社。
五所塚、威光寺とともに長尾砦が有った。
多摩区長尾の最高の丘陵にあり、元は当社の南側に五つの古塚があり五所塚権現と
称していたが、明治40年12月、それらと赤城神社を合併し、村社・長尾神社と改称された。
正月7日、長尾(ながお)神社では、「マトー」と呼ばれる射的(いまと)行事が行われます。
この行事は年頭にあたって神前で的を射て、その年の五穀豊饒と村内安全を祈る
予祝(よしゅく)行事です。
射的祭りは、広く全国的に見られる行事で、射手が馬に乗って矢を射る流鏑馬(やぶさめ)と、
馬を用いない歩射(ぶしゃ)という形式があります。
今は切り通しがあるが、かっては向ヶ丘丘陵に続いていました。
前方は向ヶ丘方面。
歩いていた途中で見た「黄梅」。
向ヶ丘丘陵の桜。
稲毛三郎重成の本城「桝形城」に続く多摩川を見下ろす台地。
その本城桝形城と支城をつなぐ連絡路が設けられていた。
諸葛菜。
「大紫羅欄花」(おおあらせいとう)」
「紫花菜」(むらさきはなな)
三国志の諸葛孔明が 出陣のさきざきでこの種子をまき、
兵士の食糧となるよう栽培したことからこの名がついたというが。
しかしこんな物食糧に成っただろうか。
さらに歩いて桝形城のある生田緑地に着きました。
生田緑地公園の東口から枡形山にはいるとすぐに、
枡形山の地質の解説板があります。
一番下の青いところ・・・上総層群飯室層。
約140万年前〜約120万年前頃、海底にたまってできた地層。
貝や海獣の化石が出ている。
その上の黄色いところ・・・おし沼砂礫層。
約30万年前、間氷期で海面が高かったときにできた地層。
小さくて、丸くて、平べったい石が多い。
その上の褐色のところ・・・関東ローム。
種々の時代のローム層と、ローム層に割り込んで堆積している
軽石などの層(ゴマシオ軽石層とか三色アイス軽石層)。
こういう注意書きが有りました。
地層です。
ほじくり返して貝の化石を採る不届き物がいるらしいです。
当日はこの時期にしては気温が低く駅の温度計で「5℃」でした。
おまけに小雨模様で、寒さに震えながらの見学でした。
とわ言いながら先生の適当なダジャレに大笑いしながら
生徒一同楽しく勉強させていただきました。
先生のダジャレをひとつ紹介します。
「今鳴いている鶯はナニシュウの信者だと思いますか」
一同「きょとん」
先生
「ホー・ホケキョオ(法華経)・・日蓮宗の信者です」
by a7617
| 2015-04-11 08:16