日常のこと


by a7617

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稲毛三郎重成の足跡を辿る 畠山重忠公ゆかりの地を行く  3/3

いつも、私のブログに訪問していただきましてありがとうございます。
明後日5月1日(金曜日)以降はライブドアブログに移行します
此処をクリックしてください。


http://blog.livedoor.jp/a7617a/

これからもよろしくお願いいたします。



「川崎市民アカデミー」 


講座川崎学まち歩きWS

畠山重忠公ゆかりの地を行く 三回シリーズの 三回目です。

地図の時計回りに歩きました。

稲毛三郎重成の足跡を辿る 畠山重忠公ゆかりの地を行く  3/3_d0031171_853388.jpg




白根不動尊。

不動尊は、神社なのか仏閣なのか悩むところですが、
案内板を読むと、元お寺が神社として残っていると
かいてありましたので、神社にしましょう。
明治の神仏分離で神社にしたのでしょうね。

源氏に関わり合いのある神社です。
それとここの旧お寺を造ったのは鎌倉権五郎景政というのもすごいです。
平安時代の有名人の組み合わせで不動尊を祀ったと言います。

稲毛三郎重成の足跡を辿る 畠山重忠公ゆかりの地を行く  3/3_d0031171_854149.jpg



逆に逆に歩いてきたので写真の順序が逆になりました。
この奥に上の写真の本尊が有ります。
ややこしくてすいません。

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散策の途中で見た藤の花。

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下白根に在る帷子川の分水路。

前方左に水門が見えます、ゲート部分が青色になっています。
此の水門はこの川が大水で危険になった時に此の水門から
トンネルを通じて横浜港に放流する水路です。

詳しくはこちらをどうぞ。

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帷子川親水緑道。
帷子川沿岸は急速な宅地開発と蛇行の激しい川筋で洪水被害が多かったそのため、
流れを直線に改修、後旧河川を利用して緑道を作りました。
おおざっぱな印象では、下が改修後の直線部分、上が改修前の流れを親水公園に

下イメージ図。

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親水公園の散策路を歩きました。
とてもいいところです、ハナミズキ、赤白が綺麗でした。

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稲毛三郎重成の足跡を辿る 畠山重忠公ゆかりの地を行く  3/3_d0031171_94927.jpg




この橋は渡れませんでした。

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ヤブデマリだと思いますが、間違っていたらお許しを。

稲毛三郎重成の足跡を辿る 畠山重忠公ゆかりの地を行く  3/3_d0031171_962577.jpg




こんな道を歩きました。

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今回の散策の解散場所。
白根橋付近。
此処から相鉄線鶴ヶ峰はすぐそばです。

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稲毛三郎重成の足跡を辿る 畠山重忠公ゆかりの地を行く  3/3_d0031171_983194.jpg




此れで、鎌倉初期稲毛領主稲毛三郎重成の足跡を辿る。
小山田氏一族の興亡歴史を辿る。
畠山重忠 終焉の地めぐりを終わります。

案内をしていただいたまちだウオークガイドの会 近藤安雄さんをはじめ
同行し、いろいろと教えてくださいました、皆様有り難うございました。


なお、
余談ですが畠山一族に連なる小山田氏の一族はその後
様々な歴史の場面で出てきます。

例えば
新田義貞の鎌倉攻め・・・・・
湊川の戦い楠正成と一緒に討死・・・・
甲斐、武田家滅亡時に・・・
秀忠の隠し子預かり養育 「名宰相 保科正之」・・・

歴史と言うものは在る場面、時代だけで切り取って考えないで、
連綿と続いているのだということです。
# by a7617 | 2015-04-29 08:54

稲毛三郎重成の足跡を辿る 畠山重忠公ゆかりの地を行く  2/3

「川崎市民アカデミー」 

講座川崎学まち歩きWS

畠山重忠公ゆかりの地を行く 三回シリーズの 二回目です。

此の地図の時計回りに歩きました。

稲毛三郎重成の足跡を辿る 畠山重忠公ゆかりの地を行く  2/3_d0031171_7464235.jpg




薬王寺の六つ塚見学して「駕籠塚」に行きます。
畠山重忠の内室(妻)「菊の前」は、合戦の連絡を受け、急ぎ駆けつけました。
しかし、この地で重忠戦死を聞いて悲しみ、自害しました。
その場所に駕籠ごと埋葬されたといわれています。

以前は、浄水場の中に周りを囲まれた大きな塚があったそうです。
昭和30年に場外に移され、その後、昭和49年に現在の姿に整備されました。

稲毛三郎重成の足跡を辿る 畠山重忠公ゆかりの地を行く  2/3_d0031171_7474658.jpg




駕籠塚を見て、横浜市鶴ヶ峰浄水所の脇を通ります。

この道のように見えるのは水路の(上水道道)です。
1200mmの水道管が此の下に通っています。
水路は上のリンクで確かめてください。


上の写真の上水道道を越えたあたりは展望は良く夕暮れ時の
丹沢の山並とみなと未来がとても綺麗に見えるといいます。
ランドマークタワーが見えました。

稲毛三郎重成の足跡を辿る 畠山重忠公ゆかりの地を行く  2/3_d0031171_7501986.jpg


稲毛三郎重成の足跡を辿る 畠山重忠公ゆかりの地を行く  2/3_d0031171_7503516.jpg




急な階段を下って白根地区に進みます。
此処には図書館や地区センターが有ります。

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こんな茸を見ました。

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図書館や地区センターから、白根神社に降りる螺旋道路。

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白根不動、現在は白根神社となっておりますが、
地元では「白根のお不動さん」の愛称で親しまれています。
本尊は5年に1度開帳されます。

境内を流れる中堀川に大滝、谷間より流れ出る小滝の2滝があります。
小滝は行者の修業に使用されます。
大滝は、白糸の滝と呼ばれ、幅9m、落差5.5m、
横浜市内では唯一といわれた自然滝でしたが
侵蝕がひどく、昭和62年度より、修復工事が行われ新たな

白糸の滝の碑。

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白糸の滝(大滝)
浸食がひどいので石積にしています、修復したのですね。

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白糸の大滝の脇に万葉の碑が有ります。
武蔵国都筑郡の防人夫婦の歌が書かれています。

大意は
私の旅が胸を苦しくしたら、足柄山にひろがる雲を見ながら、しのんでくれ。

わが夫を筑紫へ旅立たせて、いとしいので帯は解かずに、あやしくもねることかなあ。

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白根神社は急な階段が有り、崩れかかっていた登るのが
禁止されています。

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その脇に「白根不動の竜神様」が有ります。

言い伝えによればむかしから龍は、このように清流を好み、
自分の好きなジュンサイをさがして、白根不動と峯の円海山を
行き来して、道行く人々を驚かせていたということである

稲毛三郎重成の足跡を辿る 畠山重忠公ゆかりの地を行く  2/3_d0031171_7594438.jpg


稲毛三郎重成の足跡を辿る 畠山重忠公ゆかりの地を行く  2/3_d0031171_801552.jpg




不動明王と行者の滝。

中堀川の大滝が白糸の滝で、この小滝が昔、行者の修行に使われたことから、
行者の滝と云われています。
細い樋から落ちている、水を滝と言うのはやや無理があるかな。

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# by a7617 | 2015-04-28 07:43

稲毛三郎重成の足跡を辿る 畠山重忠公ゆかりの地を行く  1/3

「川崎市民アカデミー」


かわさき学 WS


表題の講座の三回目になります。
稲毛三郎重成の足跡を辿るは今回で終わりました


今回は相鉄線鶴ヶ峰周辺の史跡を訪ねます。

稲毛三郎重成の従兄弟の「畠山重忠ゆかりの地・白峰公園を付近を
散策いたしました。

写真は三回に別けて貼ります。

観光地図の一部をコピーしました。
下の鶴ヶ峰駅から時計回りに歩きました。

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出発点の相鉄鶴ヶ峰駅北口。

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繁華街を5分ほど歩くと「鎧の渡し緑道」に着きます。

以前は。帷子川はこの地を流れ川幅が広く、
武士がここを渡る時、鎧を頭にかざし川を越えたので
「鎧の渡し」と呼ばれていました。
近くに鎧橋として、橋名が残されている。

この写真の前方道路に鎧橋の地名が残っています。

稲毛三郎重成の足跡を辿る 畠山重忠公ゆかりの地を行く  1/3_d0031171_754323.jpg



緑道を少し行くと標識が立っていました。
川原には井戸があり切られた畠山重忠の首を洗ったという
「首洗い井戸」があり川原に直径1メートルほどの穴があり
水が涌いていたが、今は埋め立てられている。

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首塚。

元久元年(1204年)重忠の息子の重保が北条時政の
後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅と酒席で争った。
この場は収まったが、牧の方はこれを恨みに思い、
時政に重忠を討つよう求めた。
翌・元久2年(1205年)時政は息子の義時・時房と諮り、『吾妻鏡』によると
二人は「忠実で正直な重忠が謀反を起こす訳がない」とこれに反対するが、
牧の方から問い詰められ、ついに同意したという。
 
元久2年(1205)鎌倉に異変ありという報で息子重保を
先に行かせたがだまし討ちに遭い、自らも菅谷(埼玉県)から
鎌倉に向かう途中、二俣川で北条氏数万と闘い、わずか134騎で
4時間に及ぶ激戦の末42歳で非業の最期を遂げた。

忠重公はこの付近で打ち取られ、遺体はこの場所に
葬られたという。

事件の背景には、武蔵武士団の首領である畠山氏と、
武蔵守である朝雅を後見する北条氏による
有力武蔵支配を巡る衝突があり、
また、時政の先妻の子・義時と、後妻の娘婿・朝雅の
北条家内の対立があったものと考えられる。

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重忠公逆さ竹。

重忠公は戦死の直前に「我が心正しかればこの矢にて
枝葉を生じ繁茂せよ」と矢箆を地に突きさした。
やがてこの矢は自然に根付き、年々2本ずつ生えて
茂り続けて「さかさ矢竹」と呼ばれるようになったという。

今見えるこの竹は
別な場所にあったが、全部涸れてしまった。

平成17年にこの地に植えたそうです。

稲毛三郎重成の足跡を辿る 畠山重忠公ゆかりの地を行く  1/3_d0031171_872587.jpg



表示板の右側に見える竹がその「さかさ矢竹」です。

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散策中に見た「夕化粧」の花。

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帷子川に沿って歩きます。


帷子川本流の全域が神奈川県横浜市内を流れている。

もともとは蛇行の激しい暴れ川で水害の多い川であったが、
多くの地点で連綿と河川改良が進められた。

近年、川の直線化や護岸工事など大規模な改修が進められ、
西谷から横浜駅付近に流す地下分水路や、親水公園、川辺公園などが造られた。

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帷子川に注いでいた中小河川の名残、水はありません。

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矢畑・腰巻

北条方の放った矢が一面に突き刺さり、矢の畑のように
なったということから「矢畑」と呼ばれています。
また、このあたりで重忠公が取り囲まれたというので
腰巻と言うそうですが、矢が腰巻のように
ぐるりと取り巻いたという説もあるそうです。

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さらに薬王寺の六つ塚に行きました。

薬王寺は1205年(元久2年)6月22日、何度も書いていますが
北条時政の謀略によって武蔵国二俣川で討死した畠山重忠の霊堂。

境内には重忠をはじめ、一族郎党134騎を葬ったと伝えられている
六つの塚がある、これを六つ塚と呼んでいます。

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重忠公の物と思われる、塚。

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以下は家来のもの思われる塚。

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# by a7617 | 2015-04-25 08:16

『河原の者・非人・秀吉』服部 英雄 著

豊臣秀頼は秀吉の実子ではない、物語の世界や俗説ではよく知られているが論証不能と言われたこのテーマに服部英雄・九州大学教授がこの本で科学的に解説してくれています。
秀吉は多くの妻妾を持ちながら子宝には恵まれなかった。
50歳を超えて側室の茶々との間にだけ早世した鶴松、次いで秀頼を授かっている。
秀頼については早くも江戸時代に、実父は大阪の陣で淀君母子に殉じた大野長治だとする説が広まった。
作家の司馬遼太郎なども非実子説に言及しているが、これらは憶測や俗説の域を出ていない。

そこで服部教授は秀頼の誕生日である文禄二年(2593年)8月3日から逆算して受胎が想定される前年の天正二十年11月4日前後に秀吉と茶々が同衾した可能性を検討してみた。
秀吉は同年10月1日に朝鮮出兵の基地・名護屋(佐賀県唐津市)に向け大阪城をたち、翌年8月まで滞在した。
秀吉の子を宿したとすれば、茶々も同行していなければならない。
その根拠とされたのが名護屋に従軍した平塚滝俊の日記にある「茶々が同行しているらしい」という記述だ。
しかしほかの多くの資料を再検討した結果、茶々の名護屋での存在を示すものはない。
名護屋城には側室・京極瀧子が滞在したことがはっきりしており、服部教授は「平塚の日記は瀧子を茶々と誤認したもの」と結論つけた。
そのほかに様々なことから秀頼は秀吉の子でないと科学的に結論つけている。

ならば何故秀吉は茶々を許し秀頼を実施と認めたのか。
教授はそれを「茶々はかっての主君織田信長の姪。織田家の覇権を簒奪した秀吉にとって自らを正当化するためにも、茶々が子を産むことが望ましかった」
これまで学会は秀吉が秀頼を実子と認めている以上、血のつながりにあまりこだわってこなかった。
しかし服部教授は史実の解釈に重大な問題だと説いています。
秀頼の誕生が、秀吉の後継者だった関白秀次の、失脚、自刃につながったと言われる定説。
関ヶ原の合戦で秀吉子飼いの武将の多くが東軍(徳川方)についた理由についても「背景には秀頼出生の正統性対する疑問があった」という視点で再議論、検討されるべきだと主張しておられます。
# by a7617 | 2015-04-24 07:22

人生案内 受験勉強

本日の読売新聞の人生相談に面白い質問が出ていました。
受験勉強、なぜヤラナケレバいけないのでしょうか。
私の子供の時分い「学校の勉強など社会に出たらほとんど役に立たない」と言う
大人がいましたが、私はそんなことはないと今でも思って居ます。

以前、ソニーの盛田昭夫さんが学歴無用論を掲げましたがが、今では
この考え方、意見はどのように理解されているのでしょうね。

この回答者の鷲田清一(哲学者)さんと言う方は判りやすい解答ですね。

全文掲載します。



受験勉強の意味とは

高校1年の女子。志望校に落ち、なぜ受験勉強をしなくては
いけないのか疑問を持つようになりました。
努力は報われるという周囲の言葉を信じて、1年間勉強しました。
結果が出て思ったのは、なんか、ばかばかしいってことです。

中3になったとたん、親も先生も口出しを始め、勉強はするようになったけれど、
多分気持ちがついていかなかったのだと思います。
結果を出さなければ、勉強したうちに入らないと多くの人に言われましたが、
それは結果のために勉強しているってことなんでしょうか。
1回きりのペーパーテストで未来が変わるのはおかしい気がします。

受験勉強より、人と話し、芸術に触れ、旅でもしたほうが、
感情豊かで深みのある人間になれると思います。
政治家の悪いニュースをよく見ますが、たとえ東大を出ても
常識がなければ、人に尽くせる人間にはなれないと思います。
なんで受験勉強をしないといけないのですか。
(京都・J子)

                  ◇

「しかたがないから」「しなければならないから」という以上の
理由をもっている受験生は少ないと思います。
ほとんどの人は「内なる」理由をもたずに、とにかく一つでもいい大学に
入ろうと受験勉強をしている。

大学に入ることが目的なのではなくて、何かまだ見えていない
目的を果たすためにも、まずはそのことにきっと有利に
はたらく大卒の資格を取っておかなければ、という理由です。

でもそういう人たちにも、いずれ、自分はいったい何がしたいのか、
すべきなのかという問いと向きあう日が訪れます。
その日があなたには人より先に来ましたね。

受験勉強は手段です。でも勉強はもっと大きなものです。
自分が歴史のどういう段階にいるのか、世界情勢、
社会情勢のどのような位置にいるのか、それを探り、
そして何をすべきか、何ができるかを知るために、
つまるところ自分がいま立っている場所を知るために、
先達の探究から学ぶというのが、勉強する理由だとわたしは思います。
いま、あなたはその問いに向き合っている。大事な時間です。
                            
                          鷲田清一(哲学者)





写真の説明
本文とは関係ありません。
二人いる孫、下の孫は今年高校生になりました。

このご飯茶碗、左が私、右が孫のもの。
私は軽く一杯、孫は我が家に来ると「あ~腹減った」と言いながら
この茶碗に大盛り二杯食べます。

吃驚したり、うれしくなったりです。

人生案内 受験勉強_d0031171_941764.jpg

# by a7617 | 2015-04-22 08:50